吉田松陰の松下村塾に並び称される池田草庵の青渓書院、草庵の門人には東京大学総長を務めた浜尾新(豊岡市出身)をはじめ北垣国道(養父市建屋出身)他、幕末明治に国を支えた大くの偉人を輩出した。
中でも北垣国道は青渓書院の塾頭をつとめ、尊王攘夷派と交流があり坂本龍馬とは蝦夷開拓などで深い交友関係にあった。国道は草庵の引き留めを聞かず生野の変に参加し惨敗、逃亡の末、長州藩にかくまわれ戊辰戦争勝利を経て明治政府入りした。
東京遷都後の疲弊した京都府知事に就任し地域再興の琵琶湖疎水。北海道庁長官、貴族議員、民間人となってからも北海道開発の夢は潰えず京都資本の応援を得て小樽から函館間の民間鉄道を建設する。これは大型産業輸送をかなえ国営鉄道のさきがけだった。(役人時代政府に反対されたこと、龍馬との約束だったとのF説)
その国道が高知県令のころから信頼していた技師が、同郷八鹿村の島田道生でした。田辺朔朗の登用で琵琶湖疎水の基本計画の測量図作成は島田の作でした。実際の工事は難航し工期、予算とも大幅に上回るものとなりましたが、田辺・島田の能力と北垣の使命感により琵琶湖疎水は完成。当時国お抱えの外国人技師が驚いたのは、島田が主導した測量の正確性でした。長良山(滋賀県大津)トンネル全長2400メートルの貫通時には高低差1.2ミリ、中心差7ミリで結合したという。
北垣国道が北海道庁長官になり赴任すると田辺朔朗は帝国大学教授を辞任し国道と共に北海道開発に携わる。島田道生も国道、田辺と行動を共にすることになる。港湾・鉄道・道路・都市計画など北海道の基本設計は彼らによる。 北海道を作ったのは八鹿とは言い過ぎだが、養父市の偉人である北垣国道、島田道生が京都府、北海道の発展に欠かせない事業を行っていたことは郷土の誇りです。
島田道生は八鹿村(大体 八鹿小学校区) 伊能忠敬が地図測量の父なら島田道生は近現代設計測量の父、だから養父は測量のまち さて何をどう測るべきか? 計り知れない可能性にあふれていると考えるべきですね。