うめさんの故郷である養父市宿南での人形展、景色も展示場も、これぞ本家! 人形のルーツを感じて頂ければ幸いです。
現代社会で無くなろうとしている不便さ。便利にすることは悪い事ではない、皆が欲するから知恵が生まれ、やがて生活提案となり様々なサービス、商品が開発され市場に流通して行く。私たちは紛れもなくそんな経済下で暮らしている。 テレビは各部屋にあって一人で好きな番組を視れる。食事もコンビニに行けば個食対応!好きなモノを選べる(選ばされているのだが)。掃除だった電気掃除機や掃除ロボット、汚れたら交換してくれるモップさえ普通に流通している。学校教育現場では完全な空調、給食、いじめ対応、少人数学級、中一プロブレム・・・・ もはや家族や集落は不要とばかりに、社会の責任論で行政課題に転化しているとさえ言われ始めた。これらは税も含めたお金を出せばいつでも誰でもその利便性を享受できると言わんばかり。
うめさんの人形は昭和の農村を舞台として、そこで働く人をテーマとしている。その時代とは上述の文明機器は全く無い時代です。便利な道具が無い分、全て手作業で人が行わねばならなかったのです。一人ではできない事、家族や集落単位で手分けして行う事が今より多くあったのです。
そこに作業分担のルールが生まれます、例えば肥持ち(堆肥を田畑に運ぶ作業)では、家の便所(ポットン便所のプール)から田畑までを天壜で二つの桶を運ぶのですが、重量が40~60キロもあるため畑から便所までの距離を分担して二人で運んだりします。その時天壜を地面に下さず相手に渡す事を『肩継』と言いますが、バランスを上手くとれるよう相手に渡さねばなりません。
相手の肩の高さ、前後のバランス、更に引き継ぐ場所(何処まで運ぶべきか)これらをいつも考える事は、相手の立場に立って考えることです、相手とは父であったり祖父であったり家族でしょう。うめさんの人形はそんな動作をしているだけでなくその作業の時の人の気持ちが表情に表れているのです。
農業特区への取り組みは、農業を経済・経営的に計れるよう効率化する事です。農業を科学する視点として経済は重要で機械化、IT化は必要ですが、もうひとつの視点として、助け合い、分担(協働というのかな)、またそれら人と人のコミュニケーションが必要な『暮らしぶり』そのものを一つの生き方として世に出すことはできないだろうか? 専業の食べて行ける農業としてだけではなくて。 (更に具体的に言葉に出来るようにしてみます)
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