生野銀山×加来耕三×藤原次郎
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明治(兵庫県)150年記念フォーラムが和田山ジュピターホールでありました。パネラーの藤原次郎氏やいろいろな方のFBで結構なPR露出がありました。基調講演は和服で登場の早川知佐氏とおなじみ歴史・作家の加来耕三氏でした。その後同級生でもある映像作家藤原次郎氏も交えたパネルディスカッションが行われたようです。(ディスカッションは時間の関係で聞けず)
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印象的だったのは、加来氏の講演です。以下ポイントを・・・・
1853年ペリーが黒船でやってきた。実質的な明治維新の始まりとされるが何故か? 何故黒船来航は幕府を震え上がらせたのか? それは幕府と通称条約締結に来たペリーはその帰り浦賀まで航行したからです。浦賀は黒船が搭載している大砲の射程に江戸城が入る距離、砲撃されると江戸の町は火の海になることを知っている人が多かった。
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1840から始まった中国でのアヘン戦争、なぜ中国が負けたのか? 中国人口は3億人超、軍隊は80万人、いっぽう英国の中国攻め海軍は2万人。理由は中国の封建制にある、すなわち小国の集まりであった中国は隣国を助けない。(日本でも薩英戦争では薩摩藩だけが戦い負けた)藩民はいても国民はいなかった日本、(中国と同じ統治体制)アジアの出来事に危機感を持った島津斉彬・薩摩藩幹部が幕藩体制では先進国と対峙できないことを知り、明治維新に進むことになる。
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生野鉱山は平安時代から採掘されていたらしいが、江戸幕府も直轄し銀・銅・錫を増産した。明治政府も維新元年1868年1月には日本初の政府直轄運営鉱山に指定し、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、フランス人技師らの助力を得て、先進技術を導入し一気に近代化が進められた。
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鉱山技術は、採掘・精錬に加え、鉄軌道、馬車道、やがて高官の住まいから街路、街の佇まいと影響を与え、自給自足率が高かった中山間地の小さな町は、鉱山関連従事者で溢れていた。これは今のサラリーマンが多かったことであり、生野・明延・中瀬は旺盛な紙幣流通による市場経済生活者が多かったと想像できる。
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経済貿易に迫られた開国間もない日本にあって、その経済を支え、基調な資源を産出した。日本の鉱山・・・・・佐渡・生野(明延・中瀬)・石見。
明治150年は生野鉱山150でもあり、以後日本を支えた生野鉱山というお話でした。
これからは点在する遺産が日本の産業遺産として時代感覚をもって収集整理され、観光交流を手始めに地域を支えるように活用しなければ。